仙人は聴く

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それは或る陽射しの強い日、かげろう揺らめく街路樹の葉陰からゆっくりと自転車を降りた人が「どうも、どうも」と相撲取りが手刀を切るような挨拶をとなえながら近寄ってきた。
見ればあのすばらしい『バイタボックスのマルチチャンネル装置』を聴かせていただいて以来、しばらくお会いしなかったS氏であったが、高雅な音色がいまだ耳によみがえる霊力の人である。
「にわかやまいで、しばらく入院しました」と、意外な言葉があった。驚いて良く見れば、温泉にでも行ってきたようにけろりと申されて湯上がりのような表情だ。
以前S氏からいただいた高山植物が、あれから三年も経つというのに毎年団扇のような葉ばかり大きくて、一向に花が咲かないことを怪しんでいたところ「里で花を附けさせるには、途中、二度ほど植え替えて標高を下げて順応させるといいます」と、ご近所の古老に教わって諦めかけ、昨年になってついに偉大な花を附けてみせた。
改造された845アンプを聴こうと、スピーカーのまえにピタリと座った音に集中する姿は剣豪のように一分の隙もないそのS氏、ジャズからクラシックまで黙ってきいておられたが、ふたたび春日大社のお告げのようなコメントが出されたので謹んで拝聴してみよう。
「高域の粒の立った音はやかましくなると、オーケストラにマイナスのようにこれまで思っていましたが、かえって生演奏のようなリアルな効果が出ると初めて知りました」音がよければあっさりそれを認める仙人の耳であった。
関が丘の哲人が届けてくださった佐久間先生の著書「直熱管アンプ放浪記」に、至高の300Bアンプのまだその先に845球アンプという富士の高みの存在があると設計の体験が綴られていて興味深い。
満足そうな山谷S氏のお帰りを見送ったあとも考えたことだが、まだRCA製845球という未聴のアイテムもあって、これをプッシュプルでいずれ聴きたいものである。
ROYCEの場合、300B、845二機種を日をおいて聴き比べて、すべての表現力で300Bに845球が優っているとは聴こえない。どちらを選択するかいまだに結論がないのは迫市のSA氏が、最近300Bアンプをレストアした結果、あたらしい魅力が聴こえてきたので甲乙つけがたくなった。
九州の博士KU氏によれば「ウエスターンは300B球を継ぐ球として845球の製造を研究しましたが、所期の性能を得られずついに断念したときいています」と、300Bのほうに理があるもよう、と慎重な見解を当方に教えてくださったので、それ以上のことはプリアンプとのマッチングにもかかわってくるのかと思われる。